140 研究系及び研究施設の現状
田 原 太 平(助教授)
A -1)分子分光、光化学
A -2)研究課題:
a) 極短フェムト秒光パルスを用いた凝縮相分子の核波束運動(振動コヒーレンス)の実時間観測 b) フェムト秒時間分解蛍光・吸収分光による光化学ダイナミクスの研究
c) ピコ秒時間分解振動分光による光化学短寿命種と振動緩和ダイナミクスの研究 d) 時間分解分光法における実験手法の開発
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 光パラメトリック増幅( OPA )により発生させたサブ 10 fs の光パルスを用いたポンプープローブ測定によって、光 励起直後のトランスースチルベン S1状態の過渡吸収の時間変化を測定し、200 cm-1の S1状態 C =C -Φ面内変角振動
(ν25)に由来するビート信号を観測した。観測されたν25ビート信号の振幅の大きさを議論し、このタイプの時間領 域分光実験で観測されるビート振幅が、振動数領域の二つ分光におけるスペクトル強度(S1←S0吸収の振動構造お よびS1状態の共鳴ラマン散乱)と定量的と結び付けられることを示した。また、ポンプ光源とプローブ光源に別々の OPA を用いることでポンプ光とプローブ光の波長を独立に変えることができるように装置を拡張し、これを用いて、 ジフェニルシクロプロペノン分子の光解離反応中に現れる核波束運動を観測した。
b1) クリサジン(1,8-ジヒドロアントラキノン)の分子内光プロトン移動反応をフェムト秒蛍光分光法で研究した。互変 異性体型の蛍光が光励起後50 fs以内に現れること、すなわち励起状態でのプロトン移動が50 fs以内で起こること、 を見出した。この極めて速い光プロトン移動は、この反応が通常の意味でのA →B という反応というよりは、励起状 態での波動関数の非局在化を反映した変化であることを示唆している。また、分子内振動再分配に誘起されたプロ トン平均位置の変化を反映していると考えられるスペクトル変化をサブピコ秒領域で観測した。
b2) アゾベンゼンのS2(ππ*) 励起に伴う光異性化は、これまで信じられていたのとは異なり、平面型のS1(nπ*) 状態に緩 和してから進むということがわれわれの最近のピコ秒時間分解ラマン分光の研究で示唆された。この問題をさらに 調べるために、アゾベンゼンの蛍光を定常的および時間分解的に測定した。S2(ππ*) 状態からの蛍光にあわせて、吸 収スペクトルと良い鏡像関係を示す S1状態からの蛍光を観測し、S2励起によっても確かに平面型の S1状態が生成 していることを確かめた。また、S2蛍光と S1蛍光の強度を比較することによって、S2→ S1緩和の量子効率がおおよ そ1であることを見出した。これは、これまでいわれていたS2状態から直接すすむ回転型の異性化経路が実質的に 存在していないことを意味する。
b3) 東京工業大学のグループと共同でポルフィリン励起状態の電子緩和を研究した。周辺置換基の異なる亜鉛ポルフィ リン 6 種について S2蛍光の減衰および S1蛍光の立ち上がりを時間分解測定し S2→ S1内部転換速度を求めた。周辺 置換基の変化によって、内部転換速度は< 80 fs から 1.7 psまで 20倍以上も変化することがわかり、またその変化が S2、S1状態のポテンシャル曲面の平行性という観点で統一的に説明できることを見出した。
c1) 近赤外域にある水和電子の電子吸収に共鳴させて水のピコ秒時間分解ラマンスペクトルをはじめて測定し、バルク の水の変角振動バンドの約30 cm–1低波数側に大きい強度をもつ過渡ラマンバンドが現れることを見い出した。こ れは水和電子の周りの局所的溶媒和構造が選択的共鳴効果をうけて強いラマン散乱を与えたものであると結論し た。
研究系及び研究施設の現状 141 c2) 早稲田大学のグループとの共同で、5-ジベンゾスベレノン分子の光反応初期過程を時間分解ラマン分光法で研究し た。この C =O 基をもつ分子では、C H 基を有する 5- ジベンゾスベレンや C HOH を有する 5- ジベンゾスベレノールと 異なり、S1-T1系間交差がきわめて速く(~10 ps)進行することを見出した。また系間交差後のT1状態での振動冷却過 程に対応する過渡ラマンバンドの低波数シフトを観測した。
c3) 増幅したピコ秒パルスを用いてレチナールの共鳴ハイパーラマン散乱を測定し、この分子からのハイパーラマン散 乱が極めて強く、希薄溶液からでも十分な強度で観測できることを見出した。さらにハイパーラマン散乱強度の励 起波長依存性を調べ、これと共鳴ラマン散乱強度の励起波長依存性とを比較することによって、この分子では無極 性溶液中で二光子許容の Ag状態と一光子許容の Bu状態のエネルギーがきわめて近接していることを見出した。 d)時間分解分光と時間領域分光を組み合わせ、電子励起状態をはじめとする短寿命化学種の低波数(テラヘルツ)領域 の分子振動を観測する分光手法を開発した。この新しい手法を用いて、芳香族分子 S1状態の0 cm–1 ~ 300 cm–1領域 のラマンスペクトルに対応する信号を時間領域で得た。
B -1) 学術論文
T. FUJINO and T. TAHARA, “Picosecond Time-Resolved Raman Study of trans-Azobenzene,” J. Phys. Chem. A. 104, 4203
(2000).
S. TAKEUCHI and T. TAHARA, “Vibrational Coherence of S1 trans-Stilbene in Solution Observed by 40-fs-resolved Absorption Spectroscopy: Comparison of the Low-Frequency Vibration Appearing in the Frequency-Domain and Time-Domain Spectroscopies,” Chem. Phys. Lett. 326, 430 (2000).
A. SHIMOJIMA and T. TAHARA, “Picosecond Time-Resolved Resonance Raman Study of Photoisomerization of Retinal,” J. Phys. Chem. B 104, 9288 (2000).
S. Yu. ARZHANTSEV, S. TAKEUCHI and T. TAHARA, “Observation of Excited State Proton Transfer of 1,8-
Dihydroxyanthraquinone (Chrysazin) by Femtosecond Time-Resolved Fluorescence Spectroscopy,” Chem. Phys. Lett. 330, 83 (2000).
B -4) 招待講演
田原太平 , 「超高速分光による分子ダイナミクスの研究」, 日本化学会第 78回春季年会 , 千葉 , 2000 年 3 月 . 田原太平 , 「フェムト秒・ピコ秒分光による凝縮相分子ダイナミクスの研究」, 理化学研究所 , 埼玉 , 2000年 7 月 .
T. TAHARA, “Photochemical Dynamics Studied by Picosecond and Femtosecond Vibrational Spectroscopy,” Gordon
Conference “Vibrational Spectroscopy and Molecular Dynamics”, Newport, RI (U.S.A), August 2000,
T. TAHARA, “Time-Resolved Study of Photochemical Dynamics of Fundamental Molecules in Solution Using 10 fs - 2 ps
Optical Pulses,” The VIIIth International Conference on Laser Application in Life Sciences (LALS2000), Tokyo (Japan), August 2000.
竹内佐年、田原太平, 「液相分子の極限高時間分解分光:10 fsパルスを用いた励起状態振動コヒーレンスの観測とその機 構」, 分子構造総合討論会 , 東京 , 2000年 9 月 .
T. TAHARA, “Excited-State Dynamics Observed through Picosecond – Femtosecond Time-Resolved Vibrational Spectroscopy,” Symposium “Raman Spectroscopy : Coming Age in the New Millenium” in the 2000 International Chemical Congress of Pacific Basin Societies (PACIFICHEM), Honolulu; HI (U. S. A), December 2000.
142 研究系及び研究施設の現状
T. TAHARA, “Excited-State Proton Transfer Dynamics Studied by Femtosecond Time-Resolved Spectroscopy,” Symposium
“The Structure and Dynamics of Photogenerated Intermediates in Solution: Vibrational and Electronic Studies” in the 2000 International Chemical Congress of Pacific Basin Societies (PACIFICHEM), Honolulu; HI (U. S. A.), December 2000.
B -5) 受賞、表彰
田原太平 , 光科学技術研究振興財団研究表彰(1995). 田原太平 , 分子科学研究奨励森野基金(2000).
B -6) 学会および社会的活動 学協会役員、委員
日本分光学会東海支部幹事(1999). 学会の組織委員
第9回放射光学会年会プログラム委員(1995). 分子構造総合討論会プログラム委員(1997).
B -7) 他大学での講義、客員
名古屋大学 , 「ミクロの時間の化学」, 総合科目「自然の科学―こんなに面白い」, 2000年 12月 .
C ) 研究活動の課題と展望
本研究グループでは超高速時間分解分光をベースとして凝縮相の光化学反応を研究する。特にフェムト秒からピコ秒時間 領域におけるダイナミクスの解明に力点をおく。フェムト秒時間領域においては分子の核運動のコヒーレンス(核波束運動) を実時間で観測することができるが、化学反応におけるコヒーレンスの意義については未だ明らかでない点が多い。このこ とを念頭におきながら、電子状態に対する分光、振動状態に対する分光、核波束運動を実時間で観測する分光を駆使して、
複雑系である凝縮相のダイナミクスについての多角的かつ総合的な研究を行う。